結成秘話
1952年9月に書かれた白ばら会合唱団の機関紙「薔薇の木」第五号の一部です。創団当時の様子がわかります。
「花薔薇」
小田切 敏
俗に十年一昔という。一昔とまではゆかないにしても、今年も七月になると私達の合唱団は満七年を経たことになる。毎回の練習を書き綴ってきた日誌もすでに十数冊になり、この頃では全部を読み終わるのに二晩はかかる。その当時の変動する社会情勢を知るとともに、その中にあって私達の会がどのような歩みを続けてきたか、そして各個人は何を考えていたか、を今更の様に顧みてホッと嘆息と共に日記の頁を閉じるのである。この場合の嘆息とは──古い人にとっては思い出への祝福であり、新しい人にとっては未来への祝福であろう。その日記も昭和二十二年の始め新木君の幹事の時から始まったものであるが、この会の発生は更に一年半を遡るのである。記録上空白となったこの時代の歴史については「ばらの木」第一号より要望があったものであるが、その際予定していた創始者村上君よりの原稿が戴けず、止むを得ず私が筆をとった次第である。従って、私の入会以前二か月間の記録には或いは不正確な点もあると思うのだが御了承願う。当時、書き留めていたノートと写真と楽譜とを眺め眺め記憶の糸をたどって日記の始まる昭和二十年暮までの歴史を綴ってみた。
昭和20年7月~21年12月
サイレン・爆音・高射砲の音、日を経るに従って空襲の度数は増していった。ゲートルを巻き、鉄兜や頭巾をかぶって街は益々殺気立っていた。昭和二十年七月初夏の微風も漸く無風の陽射しに変わったそのころ、応用科学の一年の学生・村上輝夫君の実験室に沼田・名塚・荒木さんの三人が歌を教えて貰いたいと言って来た。村上君が唄が大好きで上手だという評判を聞いて来たものらしい。彼女等は女学校を卒業してすぐ当時第一回募集の始まった文部省研究補助員養成所の講習を受け、四月から応用科学科の研究室に配属されて来ていたものである。村上君は同士を得て大いに喜び一緒にシューベルトの歌曲を一生懸命勉強した。「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」「白鳥の歌」などから易しそうなものを選んでは片っ端から歌ってメロディーを覚えさせ、音符の読み方、音の取り方を彼一流の丁寧の丁寧さで冗談を交えて教えていた。空襲警報の鳴る間を見て、工学部四号館の屋上の陽当りのよい砂利の上の壊れかけたベンチで、或いはこの仲間に加わってきた小島さんのいる応化図書室で美しい歌声をひびかせていた。ある教授には、非国民!と叱られた事もあった。
連日の空襲で、ガス・水道・電気の実験設備は一切停止し、大学への往復の電車の運行も事欠くことがあり、街はさびたトタンと瓦礫の焼野原となっていた中に一発の焼夷弾も落ちなかった大学構内は全く別天地の感があった。事実一歩正門に足を踏み入れると、そこにはゲートルも巻かない下駄履きの学生が本を読んでいる姿があちこちに見られるのだった。明日の運命も分からぬ毎日の生活のうちにも、この様な環境に包まれて歌声も一日も欠かさず続いて間もなく八月、終戦を迎えた。
求めるものもない混乱の中にも唯一の心の憩いの場所として、も早各人にとっては、歌は棄て切れぬものとなっていた。同行の者は更に村上(洋)さん、小倉さんを加えたが、そうなるともう単なる歌曲のメロディーだけではもの足らず、合唱をしたい、ということになったが、メンバーは村上君以外は女声ばかりである。そこで「春の小川」「牧場の朝」「鯉のぼり」などの二部合唱を始めたが、そうなると合唱狂いはやはり居るもの、応化三年の学生の横山・桑原君が現れ、村上君の友達の造兵学科一年の赤坂君も加わり、ここに少人数ながら混声合唱の第一歩を踏み出したのである。
合わせると言っても女声は殆ど合唱は初めてという者ばかりで既成の合唱曲では歌えないので、「百合姫の子守歌」「希望のささやき」「埴輪の宿」などを赤坂君がさらに易しく編曲し直して歌っていた。練習場所は空いていた第二食堂の三階の元音楽部屋を占領して椅子を持ち込み、毎日十二時から一時迄の昼休みを練習時間とした。
私が村上君に連れられてこの仲間に加わったのは丁度その様な状態にあった九月初旬の或る昼休みであった。彼とは府立高等学校の音楽部で赤坂君等と共に歌って来た間柄である。テーブルが二つ、椅子が十数脚だけの殺風景な部室で讃美歌を練習している所だったが、私が今までに聞いて来た混声合唱とは凡そ異なった感じの響きだった。殆ど地声のままの女声に、或る時はテノールを、或る時はバスを歌わされた男声が付いて同声三部・四部の曲を歌うという様な全く形を成さないものもあったが、当人たちにとっては、ただ歌っているということだけが許された最大の楽しみだったのである。
十月になると聞き伝えて集う者、男声は東川・伊藤・鳴海君、女声は宮重・小野・八木下・北山・江端・澤部さん等を加えて、ここに二十名近くの同好会になった。中でも伊藤君の出現は以後の会の発展史上に大きな足跡を残したものである。美学科在学中に応召した彼は、終戦とともに通信部隊で任を解かれると直ちに大学へ戻ったが、間もなくカーキ色の復員姿のまま我々の練習場に現れた。彼もまた私の高校時代の名バスであった。翌日からは二、三日毎に彼の手になる新しい編曲が手渡された。「證々寺の狸囃子」「碧い眼をしたお人形」「夕焼け小焼け」「故郷」「靴が鳴る」から「雀の学校」「ドングリころころ」「でんでん虫」に至るまで、或いは国民歌謡の「母の歌」「囀り」「白ばらの匂う夕」など、その数え切れぬ程の混声合唱曲が我々の会に向く様に単純なハーモニーをつけて而も各パートはメロディアスにつくられていた。合唱らしい音の聞ける様になったのもこの頃からであった。
毎日毎日昼休みが待遠しかった。勿論遅刻なしの全員出席である。窓の真正面に見える安田講堂の時計を眺めながら一字になると名残惜しげに別れを告げるが五時ともなれば必ず六、七人は誰誘うともなく集って来た。そして新しい楽譜を囲んでにぎやかに騒ぎながら筆写をし、連れ立って正門から本郷の通りを歩いて御茶ノ水駅迄を歌って帰るのも楽しい日課の一つになっていた。初めは気がひけたが、村上・伊藤君や沼田さん等の開けっ放しの表情に釣り込まれて遂には誰も歌って歩くのが平気になってしまった。
秋も更け、寒さを加えた十一月の或る日、何時もの様に数人、練習場を後にして御茶ノ水駅に着いた時だった。駅前にトラックが止まっていて、そこから担架が降ろされて何処かの病院に運ばれて行く所だった。見るとかなり重傷らしい数人の傷病兵だった。人手が足らないため、先に降ろされた担架は道路の上にじかに横たわっていた。道行く人々も敗戦に終った今では嘗ての傷病兵にも好奇の一瞥を与えたに過ぎなかった。軍隊生活をしていた伊藤君には耐えられない事だったらしい。急いで運搬の手伝いを始めた。後で、彼は眼に涙を浮かべて言った。「戦争の犠牲者に対して何故皆がもっと温かい心を持てないのだろう。時期の違いだけだ。皆同じ運命を持っていたんじゃないか」。
この事があってから伊藤くんの発案で陸軍病院へ我々の合唱で慰問に行こうということになり、交渉の結果牛込の陸軍第一病院に決まった。愈々プログラムを作る時になって我々の合唱団も名前をつけなければならなくなった。いろいろ案が出たが愛唱歌の中から「白ばらの匂う夕」を沼田さんが選んで『白ばら合唱団」という事にした。
十二月二日の午後、若松町に集まり一同揃って病院の講堂に入ると、百人近くの白衣の傷病兵達が待っていた。村上君の簡単な挨拶と合唱団の紹介の後、直ぐに演奏に移ったが混声合唱の他に男声合唱の「ビール樽」や混声四重唱の「鱒」、小倉さん伴奏で村上洋子さん独唱の「アヴェマリア」など、二十曲位の変化に富んだプログラムは一曲毎に、手の無い人、足の無い人、眼の見えない人達の熱心な拍手を受けた。殊に小学唱歌集として纏めた「牧場の朝」「碧い目をしたお人形」「夕焼小焼」「故郷」などを歌った時は、涙を流して聞き入っている人も見られた。それにしても初めの頃から比べて僅か三、四ヶ月の間に声は兎も角ハーモニーは実にきれいになっていた。終った後、控室に東大の卒業生だという方が二、三人来られて感謝の意を述べられた時には本当に来てよかったと喜びあったものである。
年が明けて早々一月六日に沼田さんの家でコンパが開かれるという通知が廻り、当日はそれ迄にやった曲の総ざらいで歌い疲れて解散した。その頃、戦後乱れていた大学の組織も立ち直って来て、我々が勝手に使用していた練習室も空けなければならなくなったので、追分にある東大YMCA寮の赤坂君の室に移ることとなった。四坪位の洋室をベッドと戸棚に占められた狭さだったが、大学からも近く練習以外にも朝から晩まで住人の赤坂君が居なくても大抵誰かが来ているという溜まり場になった。
社会の情勢も漸く治まってくると、女の人には段々と大学の勤めを止める者が増えてきた。元来研究補助員というのも戦争中の所謂挺身隊逃れという意味で来ていた者もあり、今となっては早く家庭に帰る様にと云われていたのである。横山・桑原両君は前年九月で卒業となり地方へ就職、八木下さんは病気で辞めて療養中、近く小倉・沼田・荒木さん等も辞めなければならないという。新しい会員が増えていかなければ何れは散りぢりになってしまうのではないかという不安が、楽しく歌っている最中にも誰となく感じる様になってきた。或る日の練習の後で赤坂君がその事を取り上げて、我々個人として未だ合唱に入りかかったばかりの所だけれども、この会としてはこれ以上を望むのは難しい様だ。今の最良の状態の所で思い切って解散にしようじゃないか、と言い出した。真っ先に反対すると思われた伊藤君と沼田さんが直ちに賛意を表して具体的な計画を二人が引き受けてしまったのは意外だった。その計画に従い最後の演奏会のつもりで二月十日再び陸軍病院を慰問し、翌十一日の紀元節に赤坂君の室で解散コンパが行われたのである。メンバーは十四名。伊藤君作曲の男声三重唱「花そうび」に始まり最後の「さようなら」までに歌った曲は三十三曲、これが半年間の成果の集積だった。
幹事もなく会則という骨組みもない少人数の同好会は、解散が簡単にできるものなら再建も又早かった。合唱狂という鬼は既にシミの如く離れなくなっていた。一週間もするとYMCAの一室には又歌声が洩れていた。「毎日だと多すぎるのなら、一週間に一日だけ...」と誰にいうのでもなく、ひたすら自分に弁解している様に、申し合わせて毎週土曜日の午後には待ちくたびれて嬉々として集まって来るのだった。それならば続けられるだけ続けて行こうと、村上君が指揮・幹事・印刷役となって再び活動を開始したが伊藤くんと沼田さんは去って行った。五月十九日には晴天に恵まれ、新しく入会した藤寛さん国岡産を交えて鵠沼の小島さん宅から片瀬・江ノ島にハイキングを楽しみ、七月から八月にかけては学内で催された"夏の学校"の合唱の時間に全員サクラになって協力したこともあった。この時の合唱指導が縁となって指導側の宮原・春・新木君、生徒だった織田・鈴木(道)・入江さん等の新会員を加えることとなったのである。
この頃はコンパ・遠足が実に頻繁だった。前年の十一月に村上君宅で初めてハウスコンツェルトをやって以来平均約一ヶ月半に一度位の割合で行われていた。少人数で纏まりよかった事もあるが当時としては自分たちで作って行く以外には衣・食生活は勿論、娯楽施設にも求める楽しみは総て満たされないものばかりだったのである。九月末には鳴海君と私の卒業祝いコンパがあり、十一月二〜三日には相模湖に一泊旅行があったが、夜遅くまで騒いで旅館の方で元スウィッチを切られてしまう程だった。この時の遠足には女の人の大部分は"女学校の友達と行く"という事になっていたということであった。
ちょうどその頃、戦争によって中断されていた東大音楽部合唱団(註: 現在のコールアカデミー)の再建運動が興り、村上・赤坂・東川・宮原・加太君等が中心となって奔走し十二月十四日には薗田誠一先生指揮の下に二十五番教室で戦後第一回の発表会を見るに至ったものであるが、白ばら合唱団も当日賛助出演の形で協力した。考えてみれば白ばら会は彼等の運動の素地を創る母体となっていたとも言えるだろう。その協力者の一人加太君も何時か我々の仲間に入っていた。
白ばら合唱団の運営に、夏の学校に、そして東大音楽部の再建に、この一年間に心身共消耗させた村上くんは遂に新木君に次の指揮を譲って暫くの休養をとることになった。その引き継ぎとクリスマスとを兼ねて十二月二十六日YMCAの小講堂でコンパが開かれた。何度同じ間違いをしても何時も変わらぬ態度で振っていた明るいユーモラスな彼の指揮も、その日名残惜しげに何時までも歌い終わらなかった。
冬来たりならば春遠からじ。来年には、手狭になった思い出多いこのYMCAにも別れを告げて音楽部室で練習が出来る見込みもついていた。最後の歌は「花そうび」だった。
花薔薇、春のさかりは ひと時か
  時過ぎ去れば尋ぬとも ああ、花は、花は無く茨のみ
    花薔薇、春のさかりは ひと時か
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